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HOME  >  Liverty Open Collage  >  「私の起業文化論 サントリーと美感遊創」

佐治 敬三氏 : (サントリー会長)

1996/12/03 第8回

佐治 敬三氏 : (サントリー会長)

サントリー株式会社代表取締役会長。1919年11月1日の大阪生まれ。1942年に、大阪帝国大学理学部を卒業後、1945年(株)寿屋に入社、1961年に42才の若さで代表取締役社長に就任。1963年に、寿屋からサントリー(株)に社名を変更後、1990年に代表取締役会長に就任、現在に至る。1985年、大阪商工会議所会頭に就任。1989年には、勲一等瑞宝賞を受賞。著書には、「洋酒天国」「新洋酒天国」「へんこつなんこつ」(これは佐治会長の自伝とも言うべき作品)また、句集「自然薯」(じねんじょ)も1995年刊行。好きな言葉 「やってみなはれ!」

はじめに

 こんにちは、私が、美感遊創をすくうサントリーの「スプーン」佐治敬三です。
 今日は、若い方々とひとときを共に出来るので嬉しくて仕方ありません。
 よろしくお願い申し上げます。
 皆さんは21世紀の日本を率いるリーダーの卵たちだと聞いております。
 そういう方々に、少し昔話をして、何かの参考にしていただければと思います。
 今日は何を話そうかと悩みました。皆さんが知りたがっているのは、サントリーの、 何の話しやろか-ビールの話しやろか、はたまた、ワイン、それともウーロン茶、-ぜんぶ、サントリーの製品です。
 ご愛飲まことにありがとうございます。
 そして、ウイスキーがあります。 皆さん、ウイスキーはお好きですか?
 ウイスキーをメインのお酒として飲んでる方、恐れ入りますが、手をあげてくださいませんか。
 なんや、少ないな、遠慮せんと、どんどん手をあげとくんなはれ。 別に、手を上げない方をズドンとやりたい訳やありまへん。
 それでは、ウイスキーのクイズです。
当てた方には豪華で知的な商品を差し上げます。
では行きまっせ。

<第1問>

 日本の国産ウイスキー第1号は、何というウイスキーでしょうか?
 分かる人。はい、そこの君。
 (答の出たところで)
 そうです。答は<ホワイト>です。サントリーホワイト。
 日本で始めて、京都郊外の山崎にモルトウイスキーの蒸留所を建てたのが、今から73年前の大正12年、1923年のことでした。
 けれどもご存じのように、ウイスキーは仕込んでから何年も寝かさないと、熟成しません。熟成しなければ、売れません。
 やっと、まあまあ飲めるようになって、昭和4年、1929年4月1日、国産ウイスキー第1号の「サントリー」が世に出たわけです。
 (別にエイプリルフールに出して受けようとした訳やありません。けれども当時の日本人は皆、 「ウソやろ、ウイスキーが日本でできるなんて」と警戒したかも知れませんな。といいますのも、 実は、そんなに売れなかったから。)
 事業にチャレンジしてから6年経っていました。
 6年かけてやっと商品が完成する、そんなアホな商品が他にあったら教えていただきたい。
 クルマでも何でも、そんなに時間はかからないのと違いますか?
 そんな時間をかけて生まれた日本最初のウイスキーの正式名称は「サントリーウイスキー」と言いました。
 (名の由来=赤玉のご愛顧に感謝して、レッドサンから生まれたトリイのウイスキー、サントリー)
 それでも人は勝手なもんで、勝手にニックネームをつけてしまうんですな。
 ラベルが白かったんで「白札」「白札」いう人が多く、それが省略されて終いには「白」「白」 -なんだか犬みたいに呼ばれるようになりました。
あだ名で呼ばれるようになりますと、 その人は所属集団に受け入れられたと言えますな。同じことです。

若い頃

 サントリーウイスキーが、こうして認知されるようになったのは、本当の意味では戦後も15年くらい経ってからでした。
 1960年代になってやっとウイスキーを飲む人が増えてきました。
 私の父、鳥井信治郎がウイスキー事業に着手して、何と33年が経過していました。
 多分、皆さん方の年齢に近い年数やと思います。
 私は次男坊でして、長男がいて、父の後を継ぐ予定でした。そこで次男の私は、母方の姓をつぐことになり、 佐治姓となったわけです。戸籍上の姓は変わりましたが、生活は弟の道夫と兄弟3人、一緒でした。
 私は、理科が好きで、将来は研究者になろうと思って、大阪大学の理学部に進学し、化学を専攻しました。
 これでも私は、理学学士という訳です。 残念ながら、長男の吉太郎が若くして亡くなったため、私は戦後すぐ、壽屋に入社し、父の後を継がされてしまいました。
 なりとうて、サントリーの社長になったんと違うんです。
 入社しても商売の世界になじめず、雑誌の編集をしたりして親父に抵抗しておりました。
 若気の至りで、「これからの日本に必要なのは科学的な知識や」と考えて「ホームサイエンス」 という家庭向けの啓蒙雑誌を発行していたのです。今から思うと、文化の香りを「洋酒の壽屋」 につけ加えたかったかも知れません。赤字続きで、親父にはごっつう怒られましたけどね。面白かった。
 皆さんも若いうちに親父に大いに反抗しときなはれ。
そやけど、ある程度、年齢がいったら、 親父さんに優しくしとくんなはれ。
死んでからは、親孝行はできません。

<第2問>

 酒という字は、さんずい篇に酉(とり)、と書きますが、その酉の字がボトルの形となっているウイスキーがあります。
 さて、何でしょう?
 (答を聞いてから)
 そうです。ローヤルです。
 サントリーローヤルが何でローヤルというかと申しますと、実はもともと、そのレシピ(中味)は皇室に献上した、 ロイヤルファミリー専用の特製ウイスキーだったんです。それをサントリー株式会社創業60周年の記念に、全国発売。
 <ローヤル>は、父、鳥井信治郎の最後の作品でした。<白札>、<角瓶>、<オールド>を創り、 最後にこの<ローヤル>をブレンドして、父はこの世を去りました。その後に出たサントリーウイスキーは、 全部、息子の私の作品です。
 何で、酉の形にしたのかという話に戻りましょう。
 <ローヤル>をもって、ジャパン・オリジナルのウイスキーは完成をみた、その自信を込めて、 酉という漢字の形、酒の壷から来た象形文字の酉の形をパッケージ・デザインとした訳です。
 ついでながらキャップがまた、鳥居の形をしております。これも鳥井信治郎の鳥井をもじったお宮のトリイに由来しています。
 私は、親父の跡を継いで、サントリーウイスキーのマスターブレンダーを長いこと努めております。
 今でも実際に、新製品を出すときには、私がきき酒をして「これや」と思うものが出来るまで、ゴーサインを出しません。
 (指さして)この鼻が、サントリーウイスキーの「父」やねん、皆さんもこの機会に父の鼻をよう拝んでおきなはれや。

<第3問>

 その2代目マスターブレンダー佐治敬三の最高傑作は何でしょうか?
 (答の出たところで)
 正解は<サントリーウイスキー響>-これは傑作やと我ながら自慢に思う一瓶です。みんな、傑作ですが。
 ウイスキーは、さまざまな個性の違う原酒をブレンドしてつくります。
 普通のブレンデッド・ウイスキーは、せいぜい10数種の原酒を混ぜるだけですが、 この<響>には36種の異なる風味のモルト原酒を絶妙のバランスで組みあわせております。
 贅沢な、フルオーケストラと考えてください。
 香りの異なる原酒それぞれは、ヴァイオリンだとか、チェロだとか、オーボエ、ピッコロ、ティンパニー、 ハーブなど音色の異なる楽器に例えることができます。
 オーケストラの指揮者は、タクトひとつで、絶妙の指揮をして、壮大なシンフォニーを紡ぎ出して行きます。
 ウイスキーも同じこと。原酒たちのさまざまな香り、味は、たったひとつの鼻によって、役割を与えられ、 互いに美しく響きあうよう、組み合わせられて行きます。
 それがマスターブレンダーの私の仕事。ウイスキー界のカラヤン、あるいはサヴァリッシュですねん。

寄道のすすめ、ワンフィンガー・ツーフィンガー

 今日のテーマは、ウイスキーの宣伝ではありません。「美感遊創」でした。
 ウイスキーを沢山皆さんに召し上がっていただきたいばかりに、ついつい脱線してしまいます。
 しかし、脱線というのは、ええもんですな。人生、偏差値の尾根伝いに歩くばかりでなく、 マニュアル通りに進むだけでなく、たまには、線路から外れて、大いに遊ぶ-この遊び、寄り道が、 クリエイティビティの源になると思います。
 会社が終わったら、通勤コースをちょっと外れて、道草する。いいもんですよ。
 バーに入って「<ピュアモルト山崎>を」なんて言う、こういう人になっていただきたいものです。
 ところで「ワンフィンガー」「ツーフィンガー」という言葉がありますが、皆さんはご存じですか?
 グラスの内側の底から指1本分がワンフィンガー、2本分がツーフィンガー。指一本でだいたいシングル、 指2本でダブルとなります。
 太った人と痩せた人では、もちろん量が違ってきますが、却ってそれぞれの身体に合った適量になる。
 なかなか洒落た、うまい表現だと思います。ぜひ、どこかでこの言葉を使ってみてください。
 しかし、この<ピュアモルト山崎>とか、先ほどの<響>とか、長時間、熟成したウイスキーを、 しゃぶしゃぶの水割りで飲んだらもったいない。おいしい水割りの作り方を伝授しましょう。

おいしい水割りのつくり方

 おいしい水割りの作り方。
 秘訣、その1。
 氷は、固くしまったカチ割り氷を使うこと。
 秘訣、その2。
 ウイスキーはツーフィンガー以上入れること。これが、上質なウイスキー本来の豊かな香りを充分に楽しむコツです。
 秘訣、その3。
 水を入れて、それから、よく混ぜること。
 ここが肝心です-ただ入れるだけでは歓びは高まりません。
 入れたら、愛情をこめて、強く優しく、マドラーで17回、混ぜてください。この位混ぜると、絶頂に達します。
 17回かき混ぜた水割りが一番おいしく感ぜられるというのは、 当社のウイスキー研究所が官能検査のデータを分析してまとめた結論ですが、今晩、ぜひ、お試しください。
 ミネラルウオータは「南アルプスの天然水」がよろしいで。 カチ割り氷を入れて、ウイスキーをスリーフィンガーくらい入れて「天然水」を入れて17回です。
 コツはやね、5・7・5のリズムです。一句、イク訳です。
 「やれ、いいわ。それそこもっと、出来上がり」とかなんとかで、5・7・5。
 トビキリおいしい水割りの出来上がりです。

ブレンド技術は独学、洋酒天国とトリスウイスキー

 道草、脱線、寄り道ばかりでは、21世紀倶楽部の幹事さんに申し訳ないので、 今日のテーマの「サントリーと美感遊創」にちょっと触れましょう。  私は、壽屋入社後に「ホームサイエンス」という売れない本を作っていたという話をしましたが、 やがてブレンダーとしての勉強もするようになりました。  サントリーウイスキーのレシピは親父から息子に秘伝で伝えられたという話なら、わかりやすいけど、 ブレンディングちゅうもんは、教わるものじゃないんです。
 自分で方法を見つけて行くもので、親父も私に、<角瓶>は、この原酒をこれくらい、 あの原酒をこれくらい、などと教えてはくれませんでした。それは冷たいもんですわ。
 で、ブレンドの勉強もしましたが、雑誌をつくるのも楽しいものでして、専務になってからは、 後に芥川賞作家になる開高健君と語らって「洋酒天国」というおもろい本をつくることにしました。
 今度は売らなくてもいい、ぜんぶ、ただで皆さんにあげるPR誌です。
 <トリス>ウイスキー、これも皆さん、ご存じないやろね、知ってる方、いらっしゃいますか。
 これはサントリーウイスキーを出す前に、親父が使っていたブランド・ネームです。
 <トリス>ウイスキーは、英語の「トリイズ・ウイスキーTORY'S WHISKY」から来ています。
 この<トリス>を昭和25年に出して、これを宣伝するための本が「洋酒天国」です。
 編集長は、開高健君。
彼が芥川賞をとって作家業が忙しくなってからは、 同じく後に直木賞作家となった山口瞳君が引き継ぎました。

トリスブームから日本箸作戦へ

 当時の日本人は活字に飢えていまして、「洋酒天国」には、詩、ポエムがある、ヌード写真がある、 推理小説がある、要するに、今のテレビのようなバラエティーに富んだ雑誌で、えらい人気がありました。 ウイスキーには、人間の文化的な精神を活性化する力があるんですね。
 スコットランドの国民詩人、 ロバート・バーンズも、こう歌っています。
 Freedom an' whisky gang thegither!
 自由とウイスキーは共に手を携えて進む!
 Take off your dram!
 いざ、乾杯!
 開高健君も山口瞳君も、編集者として優秀なだけでなく、広告クリエイターとしても超一流でした。
 「トリスを飲んでハワイに行こう」という名キャッチフレーズは、山口君。
 「トリスを飲んで、人間らしくやりたいな、人間なんだからな」というのが開高君。
 どちらにも「自由の憧れ」が高らかに歌われていて、それが人々の共感を呼んだのでした。
 日本のウイスキー文化は、こうして「洋酒天国」でトリス文化として花開き、その後、サントリー角瓶、 オールドなどでしっかりと根付いて行ったように思います。
 とくにオールドは「タヌキ」「黒丸」という愛称で呼ばれ、「ボトルキープ」という明朗会計システムや、 日本人の体質に合った、また、和食と相性がよい「水割り」という飲み方を提案したことと相まって、 日本の「高度成長とオールドは共に手を携えて進んだ」と申せるでしょう。
 では最後の問題です。

<第4問>

 サントリー株式会社のマークは、ある漢字をデザイン化したものですが、では、その漢字は何でしょうか?
 (答の出たところで)
 そうです。「響」という字をコンピューターでいじったのが、サントリー株式会社の、そして、 サントリーホールのマークになっております。
 テレビなどで、「この番組は、『人と、自然と、響きあう-サントリー』の提供でお送りしました」 と言っておりますが、お気づきでしょうか。
 この「人と、自然と、響きあう」というのが、サントリーのコーポレート・スローガンです。
 企業のコンセプトといいましょうか、活動理念といいましょうか、そうした目標を表現した言葉です。
 お客様の心をヴィヴィッドに捉え、自然との調和を大切にした企業活動をめざしているということを、 「響」という漢字に託したのが、このマークであり、また、「人と、自然と、響きあう」 というコーポレーション・スローガンであり、サントリー創業90周年の1989年より使用しております。
 「美感遊創」というのは、こうした活動理念をより具体的に示した言葉だと思っていただければ幸いですが、 このあたりで皆さんを代表して、頼近さんのご質問にお答えする形で、より詳しくお話してまいりたいと思います。

(第1部、クイズ形式による基調講演終わり)<トークショー>

頼近  佐治会長有り難うございました。
 続きましてトークショーへ移らせて頂きたいと思います。
 このトークショーは、基調講演を頂きました佐治会長に自由にお話をお聞きしたいと思います。
 佐治会長よろしくお願い致します。
Q. それでは、本日のテーマにも揚げられているキーワードについて、お伺いいたします。
佐治さんが「美感遊創」をご提唱されたのは、いつごろからなのでしょうか?
この言葉が、佐治さんの"座右の銘"といってもよいのでしょうか?
A. だいたい"座右の銘"というものは、好かんのです。
堅苦しいものは、いやなんです。
しかし、座右の(座左?)美女、頼近さんのお尋ねですから、好きな言葉ということでお答えしましょう。
たくさんありましてね、親父ゆずりの「開拓者精神」に「やってみなはれ精神」、それから恩師の小竹先生から学んだ「エトバス・ノイエス」、そしてこれを日本語にした「日々是新」。
「美感遊創」はその中の新人といったところです。
「美感遊創」という言葉は、実は電通総研所長の福川伸次さんが通産省で産業政策局長をしていらした頃に提唱されたものでしてね。 私は高度成長期の頃から「重厚長大」という言葉が大嫌いで、それがすたれてソフト化時代、「軽薄短小」の時代になったと言われ始めましたが、「軽薄短小」なんてとんでもない。
男としては抵抗があり、使えなかった。それで、この「美感遊創」に出会って、えらく共感したんです。
それで昭和62年、大阪商工会議所の会頭に就任した頃から、ことあるごとに念仏の如く「美(びい)、感(かん)、遊(ゆー)、創(そう)」(読経するように)-
Q. 「美感遊創」という言葉の意味を簡単に教えてください。
A. てっとり早く言えば、"美感"とは、頼近さんのような"美"女を拝見して、 "感"動することですな。"遊創"とは何か。そんな美女と一夜、遊んで、果実を得たい-という戯言も含めて、何事かに心を遊ばせて、新しいもの、ユニークなものをクリエイトするということです。
美-羊が大きいが語源。大きく艶やかな羊の美しさを形容。
目の歓びは美女、舌の歓びが美味。
これからは、この美を生活に求める時代。
とくに日本人は古来、四季おりおりの美を生活の中に求めてきた。
感-理論、理性を超えたエモーショナルな心の動きが、感。
感性、感情、共感といったもの。
旅に出て、あるいは絵画、音楽、映画、演劇などで感動することが、人生をいきいきと豊かにしてくれる。
遊-神代から人間にとって一番大事なこと。
「遊びをせんとや生まれけむ」と「梁塵秘抄」にもあるように、人間は「ホモ・ルーデンス」。
遊ぶことで人は疲れを癒し、明日の活力を得る。
オフタイムには大いに遊びを愉しみたいもの。
創-「一刀のもとに切り裂く」というのが、創。
そこに新しい断面、局面が生じる。
自分らしい生き方、在り方を切り拓くことで、個性ある充実した生活が可能となり、生きる歓びが確かめられる。
自分の切り口で、人生を味わう時代が、21世紀には可能となります。
21世紀は、まさにこの美感遊創が日本人のナショナルなライフスタイルになる時代であるべきと思うし、実際にそうなると考えております。
Q. この春でしたか、「佐治敬三の美感遊創」という展覧会が開催されました。
経営者として多忙窮まりない生活を送られていらっしゃるとばっかり思っていましたが、プレイベート・タイムが随分クリエイティブで感服いたしました。
油絵はいつからお始めになったのですか?
A. 1997年に政経文化画人展に出品しないかというお誘いを受けて、初めて絵筆をとったのが最初です。
師匠は国画会の重鎮で世をしのぶ仮の姿がサントリー宣伝部長であった山崎隆夫さん。処女作は「花とウイスキー」。
お師匠さんの絵をまる写しした拙い作品でしたが奨励賞というのをいただいて、どんな賞でもいただくと励みになるもので、それから年に1作というペースで描き続けています。
ところで、「美感遊創」という名の個展のきっかけは、去年の阪神大震災にあるんです。
大阪の梅田画廊さんから「震災で暗い気持ちになりがちな関西の人々を勇気づける企画はないかと思っていたら、ちょうど良いところで佐治さんに出会った。
あなたの個展をやれば、みんな、喜んで見に来てくれるよ」と。
そうゆうわけで、本当に私の下手な作品で笑うてもらおうと-自分で見せびらかそうと思った訳やないんです。
それがえらい好評で「東京でもぜひ」と大阪まで見に来られた俳句指南役の大岡信先生や高階秀爾先生に乗せられて、恥というものが私にはないもので、今度は意気揚々と出展したような次第です。
Q. 佐治さんは、「文化は力なり」ともおっしゃっておられます。
どうなんでしょうか、サントリーという会社が「美感遊創企業」だといえないでしょうか?
A. サントリーという会社は、振り返ってみると、創業の当初から「美感遊創」を大切にしてきたように思います。
父・鳥井信治郎が会社を起こしたのは、1899年、明治23年、日本の酒類市場の99%が日本酒の時代でした。
この時代にワイン・マーチャントたらんと志を立て、「赤玉」という甘味果実酒を創始したその開拓者精神の奥には、美しいものに憧れ、とくに美しい女性を愛する「美感」のこころがあり、その広告などを見てみますと「遊創」の心にあふれていると、我が父ながら、尊敬をしております。
このポスターは日本最初のヌードポスターです。ドイツの国際コンクールの賞をとっています。
親父は、このモデルさんのような、ぽちゃっとした女性が好きでしたな。私の母もそれは別嬪でした。このポスターは当時としては新しくて大胆で、ハイカラでした。それでいてお気づきでしょうか。
このポスターで一番目立つのはワインの色です。父もこのワインの色を出すことにこだわった。
その色が出なくて何度も担当者が怒られ、印刷屋さんが泣かされたと聞いております。
父は、広告好きでした。寿屋の出す広告はすべて目を通しておりました。
野立て看板をつくるときも、実物大にして、それを谷の向こう側に設置させて、良く見えるかどうか実際に確かめていました。
父は、ただモノを造るだけでなく、商品の存在や特徴を知っていただくことを重視し、その楽しさを広告を通して人々に啓蒙することを重視しました。
ワインにしてもウイスキーにしても、これはただの液体ではありません。文化なんです。
目に見えない楽しさが本質であり、それをお伝えしたくて、サントリーは宣伝広告を創業の初めから大切にしてきた。
必然的に「美感遊創」企業になっていたということでしょうね。
Q. 創業者の鳥井信治郎さんは、利益三分主義を唱えられていたと伺いましたが、それはどういうことなんでしょうか?
A. 基本的には、事業が成り立っているのは、商品をお客様に使ってもらっているから。
お客様なくして企業の繁栄なし、という考え方→感謝の心→その表現が、利益3分主義。
利益の3分の1は、より良い生産のために投資すべきである。
利益の3分の1は、より一層のサービスとして従業員とお得意様に還元すべきである。
利益の3分の1は、より良い暮らしを実現するために社会に還元すべきである。
先代・鳥井信治郎が、社会福祉事業に利益の3分の1を使った(邦寿会)ことは、当時としては、特筆されることだと、私は高く評価しております。
投資としては、赤玉で儲けた利益をウイスキー事業に投入。
開拓者精神で、新規事業にチャレンジして、今日のウイスキー普及の基礎を築いた。
なみなみならぬ苦労がありまして、一時は麦がかえなくて仕込みができず、ために1931年の年号の入った樽はありません。永久欠番です。他の年号の樽は1925年から1975年まで、数はまちまちですが全部ありますが、1931年だけはありません。
Q. 2代目である佐治さんは、その社会への還元を主に文化活動として展開してこられたように思います。
サントリー美術館がその初めでしょうか?
A. その通りです。
ようやく戦後復興して、高度成長にさしかかった頃。
世界に追いつけ追い越せの時代に、私は、何か心のゆとりがないなと感じ、また、日本人としての誇りをもってほしくもあって、「生活の中の美」をテーマとして日本の伝統工芸品を展覧する美術館をつくった次第です。
企業家としても文化活動は社会へのご恩返しと考え、創業60周年記念にサントリー美術館を開設したのを皮切りに、 10周年ごとに、新たな施設や組織を創り、新たな活動を加えてまいりました。
Q. 資料によりますと、サントリーは、
1960年、創業60周年の記念事業としてサントリー美術館の設立(1961年開館)に始まって、
1969年、創業70周年にはサントリー音楽財団を設立
1979年、創業80周年にはサントリー文化財団を設立
1983年にはウイスキーづくり60周年を記念してサントリーホール設立構想を発表(1986年完成)
1989年、創業90周年には大阪にサントリーミュージアム「天保山」をオープン
と、主なものだけでも随分ございます。この他、愛鳥キャンペーンも長く続けておられ、「1万人の第九」とか「サントリーミステリー大賞」とか、さまざまな活動を展開しておられます。そして、こうした施設や活動は専門家の皆さんからは大変高く評価され、日本の生活文化のレベル向上に貢献しています。
こうみてきますと、サントリーは、まさに「美感遊創企業」ですね。
その「美感遊創」の代表的な活動である「サントリーホール」がこの秋、10周年を迎えられました。
おめでとうございます。
A. お陰様で、この10月12日、誕生10周年を迎えた。
一私企業が、クラシック専用のホールを創って、それを運営して行けるのかどうか、実は、確信をもたずにスタートしたが、幸いにも音楽関係者の温かなご協力とご支援のお陰で、今や世界のトップ・アーティストが「演奏したいホール」のひとつに数えてくださるまでになり、また、音楽ファンの皆様からも、きわめて高い評価をいただいています。
ホールというのは樽のウイスキーと同じでしてね。年とともに、音響が良くなってきたと専門家の先生がおっしゃっている。
熟成してくるんです。
Q. サントリーホールは1996年10月で、開場以来640万人のお客様を迎えられたと伺いました。
10年間の公演数は、大ホール、小ホールを含め6000回。
評判の高さも「1996年版メセナ白書」によると、サントリーホールは「観客の人気ベストNo.1音楽イベント施設」であり、「音楽系アーティストが発表したい芸術文化施設のNo.1」ホールという結果が出ています。
素晴らしい評価を確立しましたが、どうしてお酒の会社が、コンサート・ホールを創ろうとお思いになったのでしょうか?
A. サントリー音楽財団の実質的指揮者・芥川也寸志氏が「サントリー音楽賞はユニークな賞として評価が高く音楽家として感謝に耐えないが、いま、東京で求められているのは本格的なコンサート専用のホール。
ひとつサントリーでどうか」と進められたことが、設立の動機のひとつ。
ウイスキーづくり60周年の感謝を社会的に現すには何が良いだろうかと思っていた矢先に、アークヒルズ開発を計画していた森ビルさんが「コンサートホールを予定しているが、サントリーさん、いかがか」とお誘いをいただき、千載一遇のチャンスということで決断。
設計は高校時代からの親友、安井建設設計事務所会長の佐野正一氏。
無類の音楽好き。
Q. 設立にあたっては、故マエストロ・カラヤンに色々アドヴァイスをいただいたそうですね。
A. 設計の前に、ベルリンにマエストロ・カラヤンを訪ね、氏のサジェスチョンによってワインヤード形式を採用した。
また、マエストロは来日された時には、10分に1模型による音響テストに立ち会ってくださった。
調布の鹿島技術研究所まで一緒に来て、熱心にアドヴァイスされたのも思い出に残っておりますねえ。
この実験では音を使わず、レーザー光線をステージから発射して、その反射を調べる。
音が会場のどこにも一様に届くかどうか、これで調べて、壁や天井の角度を創り出すわけです。
これで本当に音響が良いホールになるのかと専門家に聴いても、「本当のことは実際にホールが出来て、演奏を聴いてみないとわからない」と言うんです。確かめることが出来ない。ウイスキーならこれがベスト・ブレンドですと、チーフ・ブレンダーが言うて来たら、私は判断できます。
しかし、ホールの設計の図面をこうするからOKしてくださいと言われても、図面を描いた本人が「やってみないとわからない」という。
「しゃあない、やってみなはれ」としか言えないんです。
だからオープンが近づくと心配で心配で、実はスタッフともども夜も寝られないほどでした。
ホール開設2年後の1988年、ベルリン・フィルを率いて当ホールにやってきたマエストロは、演奏後、とても嬉しい言葉を残してくださった。
「このホールは音楽の宝石箱のようだ。数々の素晴らしい宝石が秘められている。」
Q. サントリーホールの誕生は、私たち音楽ファンにとって、とても画期的でした。
ハードウエアも素晴らしいものがありますが、何に一番力をいれたのでしょうか。
A. 響きですね、「世界一響きの美しい」ホールを、というのが最大のコンセプトです。
日本で初めてワインヤード式を導入したこともさることながら、設計にあたっては音響を最優先、壁にオーク材を張ることにより、温かみのある、残響2.1秒の音響を実現しました。
Q. ほかにも、椅子ひとつとっても、ゆったりとしているし、私たち女性にとって嬉しいのはトイレの数が多いこと。
ほんとうに、こまごまとしたところに心配りがあって、それが素晴らしいと思います。
A. ありがとうございます。
実は、椅子は私のサイズにあわせました。
コンサートに行きましても足元が窮屈、座席の幅も狭くて困っていましたもので。
トイレも、短い休憩時間などは混雑して困っているようでしたので、「増やせ」。
私の発案です。
スタッフが研究しましてね、ご婦人方のご滞在時間は一体どのくらいなのか、計ったりしてね。
それと座席数との関係から、数を割り出しました。
Q. これはどなたもおっしゃることですが、日本で初めてレセプショニスト・システムを導入されたことも、素晴らしいことでした。
私もホールの入り口できれいな女性が「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくださったとき、とても心地良かったことを覚えています。
A. 当初、「サントリーホールでは、しゃれた制服を着たスチュワーデスのような美女が切符をもぎっとる」などと感心する人が多かったですな。
2000人ものお客様を一度にお迎えするシステムは、私どもにとって初めての経験でした。
そこで、内外のコンサートホールやホテルのクロークなどを見て、研究したんです。
いかにして切符をもぎり、お荷物をお預かりし、お席にご案内し、忘れ物や何かのお問い合せに応対するには、どうするか。
カーネギーホールなどに聞きましたら、チケットの半券をもぎる人はチケットテイカー、席に案内する人は、アッシャー、分業なんですね。
病気にでもなったら、交代要員がなくて、お客様に迷惑がかかる欠点があるんです。
結局、サントリーホールでは、クローク、インフォメーションも含めて、何でもやるシステムとしました。
100人のスタッフを登録してもらい、30人1クルーでやっております。
これは、世界で初めてのオリジナル・システムです。
そうすると、そういう仕事をする人をどう呼べばいいのか、総称した名称がないんです。
そこで、受け付け、レセプションで働く人という意味で、レセプショニストという名称が出て来た訳です。
サントリーホールのこのシステムは、その後、カザルスホールやNHKホールをはじめ、多くのコンサートホールが取り入れているようですね。
Q. それからホワイエではビールやワインが愉しめます。
これも日本では初めての試みでした。
A. 外国では当たり前なのに、何故か、日本ではなかった。
近くにレストランもない。これではコンサートの感動の余韻もたのしめないということで...。
近くにもレストランやバーを設けまして、好評いただいております。
Q. そのほかにも新しい企画を数々打ち出していらっしゃることも、たいへん素晴らしいと思います。
たとえば、国際作曲委嘱シリーズ。たとえば、ホールオペラ。
どれもこれも、ほんとうに素晴らしい。世界の音楽家がそのことを一番わかって評価しているようですね。
A. 国際作曲委嘱シリーズは、武満徹さんに最初からご協力いただきまして、彼が頼むと世界の一流作曲家が喜んで仕事をしてくれる。
凄い人やなあ、と思いました。武満さんの作曲された曲は、一生懸命聴いても、ようわからん。
ちょっと疲れるんですけれど、専門家は尊敬しているんです。
ホールオペラのほうは、
Q. それから日本の音楽界のいやな常識を破って、音楽ファンの生活をいっそう豊かにしたことも忘れられません。
私は、ニューイヤーコンサートだとか、ゴールデンウイークのことを申し上げているのですが.....
A. そうそう。
それまでの日本のコンサートは、お正月の3ヶ日は休業でした。
それを、1月の1、2、3、4と実施して大成功。
ホールの従業員にはお正月がないことになりますが、皆、誇りをもってやってくれました。
新しい歴史をつくるんだという...。
同じようなことがもうひとつありまして、ゴールデンウイークなんです。
これも、みんな旅行に行って、コンサートなんかには来ないと思われていたんですか、初年度にゴールデンウイーク中のコンサートの予定をお客様が問い合わせて来られた。
それで、これはイケルというので、2年目からは、ゴールデンウイーク中もサントリーホール主催のコンサートを企画して実施しています。これも画期的なことでした。
Q. そういう意味で、サントリーホールはハードといいましょうか。
器そのものにも、そしてソフトですね、企画にも、実に沢山の日本初という新機軸があって、日本のクラシック・コンサートのありかたを、とても豊かで親しみ深いものにしてくれたと言えますね。
ところで、佐治さんは月に何回くらい、サントリーホールで音楽を愉しまれますか?
A. しばしばですね、チャンスがあれば週に2回くらい聴きたいけれど。
Q. お好きな指揮者は、どなたですか?
A. マエストロ・カラヤン。
あれほどサントリーホールの設立前からご意見をいただいたのに、ベルリンフィルを率いてのコンサート直前に病気で来日できなくなって、あわてました。
そのときは小沢征爾さんが急遽、代わりを務めてくださってこれにも感激。
結局、2年後に、マエストロ・カラヤンのコンサートが実現しましたが、それが日本で最後の演奏になりました。
そのときですよ、「このホールは音の宝石箱だ」と言ってくださったのは。それからマエストロ・サヴァリッシュも好きですね。
オープニングのコンサートで振っていただきましたし、その日、実は私もパイプオルガンを"弾き"ました。
世界でも最大規模の立派なオルガンです。
ホールの沈黙を最初に破ったのが私。
Aの音をブーと鳴らして、それが、始球式のようなものですね。
指揮者で面白かったのは、ショルティさん。
開演前にステージに立って、音響をチェック。
そのとき、オーケストラの団員を客席の一番後ろに立たせて、「Whisper!」、ささやきなさいと言ったら、その団員が小さな声で「I love you」と言った。
それがよく聞こえて、このホールは良く響くと驚かれた。
Q. お好きな演奏者は、どなたですか?
A. ピアニストなら内田光子さん。理由は、
それからチェリストならヨーヨーマもええけど、堤剛が世界一ですな、この人が演奏するときは必ず聴いています。私の娘の亭主だからね。
余談になりますが、音楽ファンがおっしゃっておられたのですが、世界的な指揮者、演奏者でサントリーホールに来ていない人はいないそうです。
実際、日本のサントリーホールで演奏したアーティストは皆さん、とても満足され、中にはサントリーホールでしか演奏しないという人もおられます。
ありがたいことだと思います。
Q. サントリーホールについてはこの位にして、企業のメセナについて日頃、感じておられることがあれば...。
サントリーは、1994年秋にサントリーホールの意欲的な活動が評価されて「メセナ大賞」を受賞されました。
その受賞の言葉の中で、佐治さんは確か「個人の情熱なくして、企業の文化活動なんかできない」とおっしゃっていましたが...。
A. はい、その通りです。
バブル崩壊後、メセナ活動から撤退したり縮小する企業が多いのが残念。
メセナ活動は、やはりオーナーの、あるいは担当者の個人的な強い意志と情熱が必要だということを感じている。
サントリーホールは10周年を機として、これまでの企画をさらに充実させていくとともに、音楽が国を越え、それぞれの文化を越えて響きあう、新世界の「架け橋」となることをめざして、積極的な活動を展開する。
どうぞ、皆さん、恋人と、あるいは奥様とおそろいでこのホールにちょくちょくお越しをいただき、21世紀に向けて、大きく育ててやってください。
Q. 貴重なエピソードや面白いお話をどうも、ありがとうございました。
それでは、ここで今日、会場にお見えの「21世紀の日本の若きリーダー」たちに望まれることを、一言、お話しくださいますか?
A. 近ごろの若い人々には、どうもマニュアル人間が多いように思われます。
人と合わせることがとても上手な感じです。
裏返せば、自分と違った人間、異質な人間を排除しようとする-極論すれば、いじめにつながる、そういう面をもっているとも言えます。
もちろん、ここで私のような人間の話を聴こうと思ってくださった皆さんは、その例外だと思います。
どんな世界でもそうだと思いますが、人と同じことをやっていたのでは、世の中に革命は起こりません。
企業においても同じことです。イノベーションなくして発展はありません。
個性を大いに伸ばして、仕事だけでなく、美感遊創の精神であらゆることに好奇心をもって、何か新しいこと、ちょっとおもろいことを始めて欲しいものであります。仮に失敗しても若いうちは、むしろそれは財産になります。かけがえのない宝になります。
失敗を覚悟で人と違ったことを「やってみなはれ」と言いたいのです。
それでは、最後に俳句を一句。

恐れずに マニュアル破って 美感遊創

そして、おまけの一句。

ウイスキーで磨け、美感も遊創も
頼近 :ありがとうございました。

終了後の控え室にて

Q. 先代から佐治会長が会社を引き継いで、なぜ大きくなったのでしょうか。
起業家佐治敬三として のお話をお聞きしたっかたのですが
A. 自然と大きくなっていた。
おっちょこちょいだったけど、常に新しいことにチャレンジしてきた 広告も大事にしてきたし、何か新しいことをやらせてくれそうだということで会社に人が集まった。
最初の頃は、ウィスキーの認知がなかったから、市場を開拓するために飲み方、今で言うソフトを考え提供してきた。
ウィスキーは文化と考えやってきた。
「やってみなはれ」ですな。